2012年11月19日

アナベル・リー

仕事が進まないときの気分転換に、エドガー・アラン・ポーの「アナベル・リー」を訳していたら、なんとなくいい感じに仕上がってきたので、恥知らずにも公開します。
この詩は米国人ならみんな学校で習うそうなので、出だしだけにせよ暗唱でもできたら尊敬されること間違いなし(笑)。
しかし、ポーっていう人は、写真で見ると「苦虫を噛み潰したような」という言葉はこいつのためにあるのかと思うような顔をして、アル中のくせに、よくこんな純な詩を書くもんだ。 でも、原詩は本当に美しい。韻を写せないのが残念だ。ひと通り意味がわかったら、YouTube にアップされている朗読を聴いてみると良いかもね。


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2011年03月21日

震災の日の歌声

前にも書きましたが、僕の母は認知症でグループホームでお世話になっています。そのグループホームでは、吉澤恵子先生と Hoi Hoiというグループが、歌を通じてお年寄りと交流する活動を行って下さっています。

その吉澤先生の年に一回のコンサートが、震災の日の晩にあり、僕も、グループホームの皆さんとご一緒に参加させて頂きました。その時の感想をグループホームの通信むけに書きましたので、再掲しておきます:


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2010年12月31日

今年もお世話になりました

FusionPlace をリリースして丸一年、多忙な反面、改めて考えることも多い年でした。
バックに組織の名前を持たない立場で仕事をすることの大変さを改めて痛感する一方で、
昔からの知人・友人、それに、お客様を含め、
あらたにお知り合いになれた方々の応援に励まされることも多々ありました。


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2009年01月15日

友を悼む

友が逝った。本当は彼のことを友と呼ぶ資格が僕にはあまりない。僕は彼に何も与えなかったので。しかし、優しい男だったから、彼は笑って許してくれるだろう。

 友を悼む

 友よ、
 抑制の効いた足取りで、僕らと同じ道を君は歩き、
 その同じ足取りで、僕らのもとを去っていった。

 誰も責めず不運に怒らず、
 君は、生きる苦しみを優しさに変えた。

 君の明るい眸は、あの時何を見ていたか。
 最後になったあの晩餐の温もりは、
 今も僕たちの中に残る。

 長い戦いを戦った。
 十分に戦った。
 そして愛する人の見守る中、
 君は戦いを終えた。

 君は生きた。
 今はただ休息と安らぎを。

 そしていつの日にか、僕たちは、
 またあの晩のように、暖かな火を囲み、
 静かに語ろう、
 友よ。


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2008年11月20日

亡き父を想う

五年前のこの季節に亡くなった父の存命中、僕と父は薄い関係だとずっと思っていた。みまかった後になって、自分の中の父の大きさに気づき動揺した。
去年の同じ季節に、父の死を想っていくつか歌を作った。いつか消える想いを紙に留めることにも意味はあると信じつつ:

 父の逝きし秋は来にけり、涼やかに彼の日と同じ青き空して

 処置室の窓より射し入る秋の陽の明るき中で父は逝きけり

 苦しみの意味はありしか、延命を父に強ひしは我の甘えか

 逝く父と、少女のごとく泣きし母の、想いを我は知らずてありき

 秋空の透き通りたる青さかな


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2006年02月10日

山頭火

分け入っても分け入っても青い山

山頭火のこの句を初めて読んだのはいつのことだったか。いつのまにかひっそりと、心の隅に根づいてしまった。

分け入っても分け入ってもと読むとき、心の奥深いところにある不安と戸惑いが共振する。しかし、分け入った先はきれいな青い山だ。この句では、所在の無い感じと明るさが不思議に混じり合い、読む時どきで違う色合いを見せる。
だからこそ多くの人が、この句を愛するのだろう。
ここには「至高の存在」はいない。人生の「究極の意味」も無い。しかしそれでもここには、一種の「充足」もある。
説明し得ぬことを説明し得ぬこととして受け入れた上での充足だ。

あるいはこんなことも浅知恵にすぎないのかもしれない。
分け入っても分け入っても青い山。
ただそれだけのことなのだろう。


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2006年01月07日

年頭にあたって

コンサルティング会社を辞めてそろそろ二年半になる。その間、依頼を頂いた時にはコンサルティングの仕事をしながらも、念願どおり、パッケージソフトウェアの開発に相当の時間を割くことができた。


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2005年11月28日

真剣と深刻

「真剣」と言い、「深刻」という。
英語ではどちらも「シリアス」ということになるのかもしれない。
しかし、この二つの語が持つ色合いはまったく異なる。
未来のある時点で何かが起きる。
その結果は悪く出るか良く出るかのいずれかだ。
結果が悪く出た後を、心配する心情が「深刻」。
結果を良く出すため、その前に全力を尽くす心情が「真剣」。
深刻になると真剣さはどこかに追いやられる。
おろおろとなり、他人の目が心配になる。
悪い結果が出た場合のために伏線を張ることに躍起になる。
真剣になると深刻さは薄れる。
世間的にみて結果がどれほど不名誉なものであろうと、
真剣であることによってそのことさえ、
持つ意味が軽くなる。
精神は研ぎ澄まされ、
身体の中の刺激−反応システムが加速される。
どこまで突き詰めても、結果がどう転ぶかは知り得るところではない。
だからこそ僕は、真剣でありたい。
成功のためではなく、失敗を受け入れるために。
非難と後悔の中でなお、それも生(せい)のひとつの姿と、
楽しむ準備をするために。
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2005年06月03日

タイトルについて

Hot Heart, Cool Mind.
だれが言ったか忘れましたが、好きな言葉です。
何かを達成するためには、ハートは熱く判断は冷静に。
この反対の状態に陥いりかける瞬間のなんと多いことでしょうか!
posted by keis at 18:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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